◎自分を責めずにすむ信心。


昭和56年3月4日 朝の御理解               御理解 第6節                       「眼には見えぬが、神の中を分けて通り居るやうなものぢゃ、畑で肥をかけて居ろうが、道を歩いて居ろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」                     


 天地金乃神様の広前は世界中であるぞと、これは表面的なものではなくて、内容のすべても、天地金乃神様のお働きの中にあるんだと分からしてもらう時に、そこに罪とか罰とかというようなものは消えていく。たとへ畑で肥をかけておろうが、神の中を分けて通り居るようなものぢゃと、どんなに汚い事をしておろうが、最近例えば本当に、これは不浄だ穢れだと思うておった、その不浄穢れの中にも神様の働きがあり、おかげがあるんだという事がここでは云われます。不浄穢れは我が心で払う事もあり受ける事もある。いわゆる自分の心次第である。
 昨日は梅の実会である方が発表しておりました。くの一なんかにも熱心に通うて、本当に自由自在に、おかげおかげで頂いていけれる稽古をしておる若い婦人です。先日も最近新築をされて、御夫婦の部屋が二階に在るんだそうですが、主人が会社の御用で一晩中徹夜で何かをしておると思うておって、いつまでも終らんから下へ降りてみたら、炬燵のなかに入って眠っておった。下に二部屋電気はあかあかとつけて、つけっぱなしで寝て居ったというのです。今までだったらもう「ああたばっかりは電気つけっぱなしにしてから、炬燵もつけて早くやすみなさりぁ、こたつつける事もいらんのに、電気もいらんのに。」とまあ云って起こした私でしょうけれども、そういう時にもう結局自分を見つめる、自分を見極めるというような発表を致しておりました。
 そこにたとえば家庭の中にも、いろんな困った事がおきた時にゃ、これはまだ私の信心が足りんからだ、私が至らんから神様が私に何かを分らして下さろうとしておるんだというて、まあいうならば自分に厳しく思わせて頂いたら、以前ならばいらいらしたり腹が立つような事でも、いろいろせんですむ腹が立たんですむというという発表してました。
 だから私後で申しました事でしたが、成る程今までの合楽の信心なら、実にすばらしい事だねえと、成る程責めたりいらいらしたりするという事よりもよいかもしれません。ああ自分がいたらんからだというふうに頂くのですから。けれどもそれはね全然心にかからん。電気がついとったら消したらよい。黙ってやすんでおられるなら、炬燵つけっぱなしにしてという事じあなくて、あの早くやすみなさいと云うた。そこに何んもいっかからんですむという事。そういうひとつおかげを頂きたいね、でないと自分を苛む事になる。私が至りませんから、私がつまらんから私がというて、云う事はねいわゆる我が心で自分の心をいじめるような結果になる。不思議にそういう心にはおかげはない。
 『昨日の御理解の中にもう口を切ったら値打ちはないと、たとえば洋酒なんかの口を切ったら値打ちはないという、あの話をしましたように、それを口を切らんですむだけじあなんて、内容がただの有難いものばっかり、それがいわば平気でおれる、それを私が至りませんから、主人がこういうお粗末御無礼な事をしてしましたというようなものではなくて、それがあのう全然障わらない心の状態。最近合楽で云われるのはそういう心の状態を云われるんだという話をした事でした。
 自分の心で自分を猛反省していうなら、自分というものを取っつめてそれをそれをまあ、自分の心をに厳しくあるという事なんですけれども、そういうものではない。それが気にかからない位に、例えばお粗末とか御無礼とか勿体ないとかいう事はあってもそれを、ああ勿体ないすみませんといういうだけでそれが心にかからない。自分の心を責めんですむようなおかげを頂きたいというて、まあ申しました事です。それこそ不浄の中にも穢れの中にも神様のおかげがある。たとえば私共気付かず無調法しておる事の中にも、神様のおかげを頂いておるのである。
 ですからそれによって自分のいうならすみませんと、こういうまあ不行届きの事であったとお詫びをするだけで、自分を苛む事はいらん、こういう所に私は新たな金光教、いうならば宗教以前の宗教もそこには、罪とか罰とかいうその形成それを形・罪に自分なこんなに罪深い、自分だと自分で決めてしまうとるから、罰を受けんならんような事になってくるのである。
 だからもう合楽理念の行き方をもってするとそこに罪もなからなければ罰もない。それでも人間人情の中にいうならまあ天地に対する、お粗末・御無礼といったようなものも感じたら詫びれば許してやりたいのが、親心とおっしゃるから詫びたらいい。ただ自分をとっちめていうなら、自分を苦しめるという事は今まで過去の宗教又は合楽でもそうでした。そのでしたけれども、それからもう一つ奥の方にはそれが全然気にさわらない。それでならろくそうに電気もつけっぱなしでいい、炬燵もつけっぱなしでよいという意味じぁない。けどもそれをなら自分のせいにして、自分を苦しめるといったような事はいらん。不浄の中にも穢れの中にも神様の御神徳は満ち溢れておられるのである。そこの御神徳を私共が自分の心でキャッチする時、そこにゃ御神徳の表われ、いうならば喜びで開けた道ぢぁから喜びには苦労はさせんという事は、たとへば今まではこれを喜ぶ所か大変きつい受け方、頂き方をしておった。そのきつい事の中に、お礼が云へれるような心の状態を云うのである。清い所も・汚き所も天地金乃神様がお守り御守護の中にあるんだ。
 だからもう本当にもうお礼を云う心というか、それが気にならない・気にさわらないこの辺の所をはまだ、今後いろいろに説かれてくる事でしょうけれども、自分もう本当に自分が至らんから、こうといって自分をこう苦しめる行き方、いかにもまあいうならば人には春の日のような心でというふうにまあ、一般道徳的な言葉で云うても、そういうふうな表現がありますが、それはね、それよりかもう一つ向うにそれが自分の心をそういう厳しく、いうのでなく自分の心にあるもの総てを神様のおかげの中にあるんだという、頂き方の中からそれがさわらんてせすむ心の状態はもう一つ、向うにそういう世界があるんだという事を私は最近思います。
 清き所も汚き所も、天地金乃神様の御守護の中にあるのだとそれでも私共がやはり、まあお粗末であったり、御無礼であったといった時にはもうさらさらと、すんなりと「ああすみません」とこう詫びる心があれば神様も許して下さるというのですから、いうならば流れ川三尺というふうに申しますようにもう汚い物を洗ってもも三尺流れたら、どんな清いものでもそこで洗うてもよいような、そういう心の状態を目指して頂かにぁならん。こりあ確にね自分に厳しいという時にぁ、そのおこってくる事が非常に厳しい事がおこってくる、自分でいうならば罪を思う自分のような罪深いというふうな思い方をするから、必ず罰がそこにはまっておるのである。その罪と思うておった事の中にも、いうならば感謝の心・お礼の心というような心の状態が開けてくるような信心。
 昨日のその一婦人のその本当に自分というものを、ぎりぎり見極めていこうとする事は、すばらしい事のように思うておったけれども、それでは自分がいうならば苛責というかね、自分を苦しめる事だけで、そういう事の中にはおかげは育たないという事です。                                       どうぞ